変わらないでほしいもの

女3人なら幸せに暮らせるとずっと願っていた。

 

妹もお母さんも

どこか頼りなくて私がいなきゃいけないとずっとずっと思っていた。

 

 

去年の秋、妹が妊娠して結婚して出産した。

 

 

小学生の時から妹は結婚しないと思って見ていた。

 

馬鹿な父親を見てきたから

気の強さは天下一品で

馬鹿な男とは結婚しないと思っていた。

 

だから俺は子どもはいらなかった

というような男と結局結婚した。

 

まじかよ。

 

妹の気の強さならそんな男捨てるだろうと思ったけど、「好きだから」と言って幸せそうに入籍した。

 

そんな男やめて、こっちで暮らそう。

 

可愛い子どもも女ときたものだ。新しく女4人で過ごそうよ。

 

変化が怖い。

4年以上母と妹と暮らしていない。

どこが「元」だかわからないけど

元には戻れない。

 

私は変わり続けている。

 

そりゃ、周りも変わり続ける。

 

目に見えた大きな変化。

 

受け入れるのは怖いし、目の当たりにもしたくない。

 

全て変わり続ける。

 

妹も母親も私がいなくても

生きていけるのだ。

親の離婚

とうとう離婚する。

やっと離婚する。

 

小学生の時に

母親から

「もしお父さんとお母さんが別れたらどうする?」

って聞かれた時「お母さんについていくよ」って答えたけど、いざ「離婚しようかな」と言われた時には「…今はやめよう」と引き止めた。

 

 

祖母から

「お前は長女だから、親が離婚したら父親についていくんだ」と延々と聞かされていたからだ。

 

私の優柔不断さはきっとここから来ている。

 

最近の家庭内のめちゃくちゃさは異常らしい。きっと祖母と叔父の精神がやられてるからだろう。

 

それに耐えきれなくて母は家を出ることを決意した。それから父と別れることも決めた。

 

「幸せに出来なくてごめんな」

 

と父は母に言ったらしい。

それを聞いて私ははらわたが煮えくりかえりそうになった。

 

どのツラで言ってやがるんだ。

私は22年間も父と母を見てきた。

男にそのつもりがあったとは到底思えない。

 

 

「貴女とお父さんは血が繋がってるの。私とお父さんは他人だからある程度関係ないけど、貴女とお父さんは親子なのよ」

 

たぶん小学校の時に母に言い放たれた。その時は意味がわからなかったから母親から突き放されたと思った。母を信じられなくなった時期。

 

今思えば確か母親が仕切りに離婚したがってた時期とこういう事を言ってた時期は同時期だった。結構精神的にきてた時期なんだろうな。

 

今なんとなくわかった。なんとなく。

 

 

家を出てからもあの家族にはうなされる。もうすっぱりと切りたいけれど切ることは出来ない。血縁関係がつらい。この血がいらない。

 

 

社会問題を凝縮してような家。

世界を変えたいと思っているのに家族さえも変えられない。

母親は祖母と他人だけど、私は祖母と血が繋がっている。

 

正直、これからが怖い。

絶望の後は海と一緒に泡になりたい。

私は絶望したい。
 
 
例えば
叶わないと確信した片思いの相手に告白をして逃げるとする。
そしたらどうしてそんなことをしたんだろうって後悔すると思う。
きっと相手にはもう連絡を取らない。
泣くだろう。きっとしばらくは好きなのに、くるしいという状況になるだろう。
「もう恋なんてしない」まで言うかもしれない。
 
 
でもきっと
残酷な事に時が経てば
別な人を好きになる。なれると仮定する。
 
他の人を好きになれば
前の男の告白逃げなんてどうでもよくなる。
だたのきれいな思い出話しになる。
 
違う。
全然違う。
カットカット〜〜。
私は都合のいい思い出話が欲しいわけじゃない。
 
 
西加奈子さんの「舞台」を読んだ。
葉太はニューヨーク観光初日、彼は金品丸々入ったバックを盗まれる。
財布はもちろん、外国に行った時は心臓と同じくらい重要なパスポート。
 几帳面なのかドジなのかキャリーケースの鍵まで。
そんな絶望の淵に立たせれても、彼は「人目」を気にした。
彼にとって、財布よりもパスポートよりも
「初日からスリにあってるぞアイツ」と他人から嘲笑われるのではないか。
「初日からスリにあったのにどうやって帰ってきたんだよ!?」と妄想し話のネタになるぞと考えるほど
「人からどうみられているか」と考えるほうが譲れなかった。
 
 
この葉太の「自意識」が気持ち悪いほどに
清々しく手に取ってわかるのだ。
 
 
無くなった「もの」の代わりはいくらでもあるが
そこで取り乱してしまえば、
いままで生きてきた中で培った「自分」の崩壊のほうが恐ろしい。
 
 
私の予防線は、
「本気にならない」ということだ。
 
昔から勉強はできたわけじゃない。と思う。
勉強すると成績はもちろん伸びる。
私は国語が好きだった。
中学のある定期試験で96点を取った。
「次は100点いけそうじゃん」
20代の先生はそう言いながら、テストを渡してくれた。
素直だった私はその言葉を鵜呑みにしてちょっと小躍りしながら
次のテストの目標点は100点にした。
 
しかし次のテストでは70点も取れなかった。
「ごめーん。前回平均点良すぎたから、今回厳しく作りすぎたかも」
おいおい!とブーイングが上がるクラスのずっとずっと遠くに感じながら
私の頬はあつく、冷えていく心と指先でテスト用紙を丸めた。
 
あほくさい。
 
結局テストは作り手の問題かよ。
私の96点も、70点にいかなかった国語も
私の実力ではなかった。
 
私の思春期は、その先の人生で
「くれぐれも全力は出すなよ」
と諭されるような事が次々と起こった。
 
 
最後の大会、レギュラー争いであと一歩いけそうなところで
足首の靭帯を損傷したとか。
憧れの先輩の隣に座れる生徒総会の時に限って前髪が短い、とか。
 
 
思春期に積み重ねた小さな小さなささくれが
どうもこうも
  今もなお痛む。
 
 
本気になって臨んで
それが自分の望み通りではなかった時の
温度差が大きければ大きいほど
それが「絶望」になる。
10年近く避けてきた感覚。
 
 
でも私は今絶望したい。
 
ここ最近の恋はずっと
「別に付き合いたいわけじゃない」
を口癖にしている。
 
次の資格試験も
「別にいらないしなぁ」
と余裕ぶっている。
 
ぬるい。ぬるすぎる。
 
なんにもなくても、なんとか生きていけると思っている。
 
 
この平和ボケした精神と日常が壊れてしまって、
命を燃やして燃えかすになりたい。
 
 
燃えカスになるには
よく燃えなきゃいけない。
 
絶望の淵がよく似合う燃えカスになりたい。
 
 
 
 
 
そしてカスになったら海に流してください。
誰にも気づかれにように、そっと。

私は、この世界の片隅で

「私はいつも真の栄誉を隠し持った人を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド

 

 

今をときめく「この世界の片隅に」の作者こうの史代さんの好きな言葉だ。

この言葉がとても似合う作品だ。と心をうたれてしまった。

 

忘れもしない。

私がこの映画を見たのは12月1日の映画の日だ。

映画が1000円で見られるハッピーな日だからこの日は映画館で過ごそうとたくらんでいた。その記念すべき1本目を「この世界の片隅に」に選んだのだった。

 

感想は書かないと思っていたが、

つらつらと並べてみる。

 

 

以下

映画・原作が交互にネタバレ要素があります。

 

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魔法をかけられた。

それはかぼちゃが馬車になるな魔法でもなければ

くたびれたスニーカーが8cmのピンヒールになるような魔法でもない。

 

今を生きる自分を、手を伸ばしたら届きそうな人たちを優しく触れたくなるような魔法だ。

 

映画が終わった後無意識に外に出ていた。

建物を出たときに、すぐ目の前に広がった狭い空でさえ

愛しくもろもろと涙が出た。

 

忘れられない。あんなにも世界が優しく見えたあの日を。

 

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選ばれたのも、探しているのも私だった。

でもこの作品自体は、そんなことは考えていない様。

羊水が赤ちゃんを守るようにただただ包み込んでいるように感じる。

 

私は、私の中に「すずさん」を探していると思う。

すずさんのどんな欠片でもいいから、私の中にあって欲しい。

 

夢中になると周りがみえなくなるとか本気で子どもと張り合うところ。

はっきりいう人をなんだか苦手な気持ちにとか、

自分の好きな人の過去の人が気になってしょうがないところ

昔からの友人に出会ったときになんだか強く出てしまったり

本当に気持ちに気づかないふりして「帰る」の一点張りをしてみたり

 

挙げだしたらキリがない。

すずさんの可愛らしくも愛おしくなる人間味を

私の中にも、見つけたかった。

 

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「過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな」

 

周作さんとすずさんが初めてのお出かけ中に

橋の上で会話する。

 

初めてのお出かけという甘酸っぱさと

家の中では話さないようなコクのある会話のバランス感。

 

このシーンが私はとても印象的だった。

 

まず映画と原作の漫画では

ここの言葉のニュアンスは大きく変わる。

 

映画の中では周作さんが故郷と呉を比べるすずさんにかけているが

漫画では周作さんは、誰かの事を思い出して、その誰かとすずさんを天秤にかけた自分にかけている言葉になっている様に感じる。

 

 先日、私は失恋した。

彼はわたしの友だちを選んだ。

わたしは「選ばんかった道」の人。

やっぱりここまで行くには

わたしもさまざまな選択肢を出されたときに

きっとこうなるような選択肢にしてきた。

それなりに、最善の道だと思っている。

きっとリンさんも

周作さんに「選ば」れんかった時

こんな気持ちだったのだろう。と思う。

 

 失恋してもしにゃせんのだー!

 

ここまではわたしのはなし。

 

 

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過去と記憶は誰にでもある。

 

この作品の中に生活の知恵や食事、団欒などのエピソードやキーワードと同じくらい「記憶」も出てくる。

 

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ものすごい速さで次々に記憶となってゆくきらめく日々を

貴方はどうする事もできないで

________________

しかもその貴方すら

懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めに過ぎないのだから

_________

 

漫画では最終回の「しあはせの手紙」

そしてコトリンゴさんの「みぎてのうた」より

 

 

体験というよりも

思い出っていうよりも

記憶という言葉。

言葉の重み。

 

 

わたしもいろんな記憶で形成されている。

笑ったり泣いたり喧嘩したり我慢したり

触れたり触れられたり・・・

 

この記憶は

誰にも奪う事はできない。

 

たくさんの記憶で、

記憶の中の「誰か」をなぞり

この瞬間の自分の端端に「誰か」を感じる。

 

以前ある人に

「素敵な体験をしてきたのね」と言われた。

言われた直後はあっけにとられた。

なぜなら、その時話した内容は

自分の家族の話だったから。

 

仲がいいとは言えず

ずっとコンプレックスに思っていた。

 

それを素敵だと言われ、

(時間はかかったが)

いままでの記憶をすこしずつ肯定することができた。

 

その時の感覚に似ている。

記憶を肯定することは

自分を大事にする一歩である。

 

世界はじつは誰かの記憶の中の話かもしれない。

 

いままで出会った人たちの記憶の中で

わたしは生きている。

 

わたしの記憶の片隅でも

いろんな人が生きている。

 

片隅って記憶なのかもしれない。

 

私は、この世界の片隅で生きている。

こうやって私は記憶を積み重ねていく。

 

きっと誰かが

私を見つけてくれるその時まで。

立ち向かうんだ乙女

宝物にしていた思い出も

自分にだけ向けられていると思った言葉も

水に濡れた紙切れのように

ポロポロと剥がれて、落ちた。

 

この紙はもう治らない。

冷やしても炙っても治らない。

接着剤でつけてもささくれてる。

 

もうきれいな頃には戻らない。

 

 

さようなら。

さようなら。

戦うんだ乙女

何をしたって夜は来る。

何をしたって朝は来る。

友達とデートしようが朝は来る。

良い人ぶったって夜は来る。

泣いたって笑える。

朝か夜かなんてどうでもいい。

悲しいときは朝も夜も関係ない。

そうか、私は今悲しいのか。

そうか、私はあの人が好きだったのか。

 

良い人ぶって、気のないそぶりをして

友達と好きなひとを繋げた。

こうなるような気はしてた。

自分で首をしめた。

自分の首を釣り上げたのだ。

 

神様、こっちをむいて笑っておくれ。

苦笑いではなく、全力で微笑んでくれ。

私は幸せになりたいのだ。

無償の愛で抱かれたいのだ。

 

釣り上げた首の紐を笑って解いてくれる人を探している。

神様なんていなくても誰か解いてくれよ。

 

私は幸せになりたいのだ。

受け止めてくれもしないのにたらさないでくれ。

 

馬鹿め。馬鹿め。

そうだ私は馬鹿なのだ。

危険だとわかっていたのになぜなのだ。

忠告も受けていたはずなのになぜなのだ。

 

一緒に歩いた記憶が暖かいのか

毒の方が美味しいのか

やめろと言われていたのになぜなのだ。

 

本当にわたしは馬鹿なのだ。

 

早くもたれかかりたい。

それはお布団じゃなくて

クッションでもぬいぐるみでもなくて

どーんとふところがふかくて

びっくりするくらいやさしくて

ぎゅーっとだきしめてくれるひとで

私をこうやって不安にさせない。

 

私は馬鹿なのだ。

 

何回も恋をして愛して

そんな人いないってわかっているのに

いつまでも幻想を抱きたいのだ。

 

幻想だってわけっているのにだ。ばーか。

期待をしている馬鹿なのだ。

 

戦うんだ乙女。

涙が出たって流せば良いのだ。

悲しくなったら友達に話したら良いのだ。

 

一人の夜が嫌になったって

六時間耐えれが朝日が昇る。

 

戦うんだ乙女。

まだ見ぬ未来で

自分の身長より大きなぬいぐるみが

まっているかも。

 

立ち向かうんだわたし。

今日もこたつはあたたかいから。

いつか全部抱きしめる。

実家に帰るたびに
心がカランカランと音がする。
いつもよりも心の糸がピンとはる。


小さな物音にびっくりする。
足音の行く所を聞き分ける。


ジッとする。
ジッと待つ。
ジッと耳をそばだてる。

 

 

あぁ、なんて暮らしづらいんだと思う。
でも、暮らしづらくしているのは私の小心者の心だ。

 

言い訳させてください。

弱音吐かせてください。

 

 

父親が酔っ払って帰ってきた時の悪夢も

祖母のヒステリックな叫びも

叔父の過剰な観察も

 

ずっとずっとずっと

ジッとしてきた。

 

それに対して弱い母を見てきたから

急に強気な母の態度は

なんだか、まだ、慣れません。

 

知らない家に帰ってきたような感覚。

 

ここにはジッと良い子な私ももう住んでいないし、弱かった母も居ない。

 

私の心にはまだ

無力な子ども時代の私がいる。

 

 

家族の仲が悪いなんて

堂々と言えることじゃない。

 

でも私が言ったことで集まってくれる人がいる。

だから私は生きているんだ。と思う。

 

 

どんな家族で育っても

恐れることなく

子どもが最大限の可能性を広げることができる。

 

どんな家族でも

子育てしやすく、子育ちしやすく。

 

私は夢を見る。

いつかの泣いていたお母さんを抱きしめて。

いつかの潰れそうな少女を抱きしめて。