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お花畑でなにがわるい

妄想させてよ、世界。

私は、この世界の片隅で

「私はいつも真の栄誉を隠し持った人を書きたいと思っている」(アンドレ・ジッド

 

 

今をときめく「この世界の片隅に」の作者こうの史代さんの好きな言葉だ。

この言葉がとても似合う作品だ。と心をうたれてしまった。

 

忘れもしない。

私がこの映画を見たのは12月1日の映画の日だ。

映画が1000円で見られるハッピーな日だからこの日は映画館で過ごそうとたくらんでいた。その記念すべき1本目を「この世界の片隅に」に選んだのだった。

 

感想は書かないと思っていたが、

つらつらと並べてみる。

 

 

以下

映画・原作が交互にネタバレ要素があります。

 

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魔法をかけられた。

それはかぼちゃが馬車になるな魔法でもなければ

くたびれたスニーカーが8cmのピンヒールになるような魔法でもない。

 

今を生きる自分を、手を伸ばしたら届きそうな人たちを優しく触れたくなるような魔法だ。

 

映画が終わった後無意識に外に出ていた。

建物を出たときに、すぐ目の前に広がった狭い空でさえ

愛しくもろもろと涙が出た。

 

忘れられない。あんなにも世界が優しく見えたあの日を。

 

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選ばれたのも、探しているのも私だった。

でもこの作品自体は、そんなことは考えていない様。

羊水が赤ちゃんを守るようにただただ包み込んでいるように感じる。

 

私は、私の中に「すずさん」を探していると思う。

すずさんのどんな欠片でもいいから、私の中にあって欲しい。

 

夢中になると周りがみえなくなるとか本気で子どもと張り合うところ。

はっきりいう人をなんだか苦手な気持ちにとか、

自分の好きな人の過去の人が気になってしょうがないところ

昔からの友人に出会ったときになんだか強く出てしまったり

本当に気持ちに気づかないふりして「帰る」の一点張りをしてみたり

 

挙げだしたらキリがない。

すずさんの可愛らしくも愛おしくなる人間味を

私の中にも、見つけたかった。

 

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「過ぎた事 選ばんかった道 みな覚めた夢と変わりやせんな」

 

周作さんとすずさんが初めてのお出かけ中に

橋の上で会話する。

 

初めてのお出かけという甘酸っぱさと

家の中では話さないようなコクのある会話のバランス感。

 

このシーンが私はとても印象的だった。

 

まず映画と原作の漫画では

ここの言葉のニュアンスは大きく変わる。

 

映画の中では周作さんが故郷と呉を比べるすずさんにかけているが

漫画では周作さんは、誰かの事を思い出して、その誰かとすずさんを天秤にかけた自分にかけている言葉になっている様に感じる。

 

 先日、私は失恋した。

彼はわたしの友だちを選んだ。

わたしは「選ばんかった道」の人。

やっぱりここまで行くには

わたしもさまざまな選択肢を出されたときに

きっとこうなるような選択肢にしてきた。

それなりに、最善の道だと思っている。

きっとリンさんも

周作さんに「選ば」れんかった時

こんな気持ちだったのだろう。と思う。

 

 失恋してもしにゃせんのだー!

 

ここまではわたしのはなし。

 

 

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過去と記憶は誰にでもある。

 

この作品の中に生活の知恵や食事、団欒などのエピソードやキーワードと同じくらい「記憶」も出てくる。

 

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ものすごい速さで次々に記憶となってゆくきらめく日々を

貴方はどうする事もできないで

________________

しかもその貴方すら

懐かしい切れ切れの誰かや何かの寄せ集めに過ぎないのだから

_________

 

漫画では最終回の「しあはせの手紙」

そしてコトリンゴさんの「みぎてのうた」より

 

 

体験というよりも

思い出っていうよりも

記憶という言葉。

言葉の重み。

 

 

わたしもいろんな記憶で形成されている。

笑ったり泣いたり喧嘩したり我慢したり

触れたり触れられたり・・・

 

この記憶は

誰にも奪う事はできない。

 

たくさんの記憶で、

記憶の中の「誰か」をなぞり

この瞬間の自分の端端に「誰か」を感じる。

 

以前ある人に

「素敵な体験をしてきたのね」と言われた。

言われた直後はあっけにとられた。

なぜなら、その時話した内容は

自分の家族の話だったから。

 

仲がいいとは言えず

ずっとコンプレックスに思っていた。

 

それを素敵だと言われ、

(時間はかかったが)

いままでの記憶をすこしずつ肯定することができた。

 

その時の感覚に似ている。

記憶を肯定することは

自分を大事にする一歩である。

 

世界はじつは誰かの記憶の中の話かもしれない。

 

いままで出会った人たちの記憶の中で

わたしは生きている。

 

わたしの記憶の片隅でも

いろんな人が生きている。

 

片隅って記憶なのかもしれない。

 

私は、この世界の片隅で生きている。

こうやって私は記憶を積み重ねていく。

 

きっと誰かが

私を見つけてくれるその時まで。